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一 はしがき

日本に社會主義が移植されて以來、その運動を歴史的に觀察するに、極めて微力なもの乍ら多少の盛衰は認められる。鬱屈雌伏の期間と目すべき時代もあり、活躍雄飛の期間と目すべき時代もあつた。便宜上これが表面的な盛衰を規準として、今日までの經過を區劃するならば、大體に於て五つの時代に區別する事が出來やう。即ち明治十年代、二十年代の發芽時代を第一期とし、叨治三十四年の社會民主黨の創立されて後、平民社を中心とした隆盛時代を第二期とする。第二期は『週間平民新聞』『日刊平民新聞』を本流とした文筆傳道の旺盛を極めた時代であつたが、所謂『赤旗事件』で打撃を受け、更に明治四十三年の『大逆事件』で致命傷を受け、一切の運動は政府の病的な取締政策の下に妨遏されて、第三期たる賣文社籠城の蟄伏時代に入つた。大逆事件以來、一咋年の流行時代に入るまでの十年間は、名實共に低迷沈衰の期間で、運動に對して何等發展の途が開拓されなかつたばかりでなく、官憲によつて狂犬の如き監視を續けられて來た。それが世界戰爭を經て漸次取締が緩和されると共に、野次馬、素見客の勢も加はり、遂に猫も杓子も飛び出すといふ程度の流行期を、加速度に形成してしまつた。學者、文人は好んで社會主義を口にし、運動屋も亦自らが社會主義者であることを誇稱する風習さへも培はれて來た。斯くして所謂思想界なるものと勞働運動なるものとは、社會主義を核心として漸やく近接せんとする傾向が現はれて來た。社會主義同盟の成立の如きは、これが具體的事實を物語るべき好個の證據であつた。然し世間の景氣が段々不況となり、警察的取締が苛辣となるにつれ、一網打盡的檢擧の風説が傳波するに及び、早くも沈衰時代に向ひつつある状態である。殊に諸所に頻發する勞働爭議は、常に世間の不景氣波に押されて慘敗を遂げ、勞働者の身邊に對する壓迫の濃度が高まると共に、勞働運動そのものも社會主義の本流から遠く分離するに至つた。斯くして第四期の流行時代に於ては、謂ふところの思想界と勞働運動とが、ある程度まで保留的關係に於て合一すべく見えてゐたものも、第五期の現在となるに及んで、兩者は改めて分化の時代に入つた譯である。

社會主義運動の今日までの經過と傾向とは、大體に於て斯くの如きものであつた。然しその各の時代を通覽して見るに、雄飛といひ雌伏といふも、泱して強靱なる熱意と熱意に培はれたものでなく、畢竟するに浮薄なる流行心理に支配さるゝ程度のものに過ぎなかつた。隆盛時代に特筆すべき運動上の記録を殘さぬと同樣、沈衰時代に沈痛なる詩をも殘してをらない。世間の景況に連れて孑孑の如く浮沈する野次馬の流行心理に投じたと否との差異である。最近の隆盛時代の例證に見ると、社會主義は細リボン、ツバ廣の帽子とその出處進退を一にし、その運命と共に流行の盛衰を領有し、而して墮落したのであつた。

二 發芽時代

社會主義思想が日木に何時から勃興したかといふ事に就ては、泱定的な斷案を與へるに困難である。明治三十四年の社會民主黨の創立を、便宜上の區劃的な時期と見做せば、それ以前の約二十年間は、社會主義史に取つて發芽時代もしくは搖籃時代とも目すべき豫備期であつた。この時代にあつては元より社會主義が如何なるものであるか、一般的に理解されてはゐなかつた。社會主義及び牡會黨なる言葉が、その時代に於ても使用されてはゐたが、それは單に最も急進的なる思想及び黨派としての別名に過ぎざる觀があつた。その時代に於て兎に角く社會主義的思想を移植し、培育し、傳播するに貢獻したものは民友社であつた。徳富蘇峰を頭目とする民友社は、幾多の逸材俊足を有し當時に於ける新思想鼓吹の中樞機關たる觀を呈してゐた。彼等はその所謂平民主義の立場から、奔放溌溂たる意氣を見せ、社會の貧者弱者のために萬丈の熱を吐露してゐた。

雜誌『國民之友』は、新思想渇仰者の愛讀措く能はざるものであつたが、民友社は更に數種の著書訳書を公刊して、漸やく世の民權者輩の思想に嫌焉たる青年の腦裏を刺戟した。

明治二十三年の議會開設の當時まで、所謂自由民權の運動は、世を擧げてその猛火の中に包まずんば已まざる慨を示してゐた。然るに軈て議會が開設され、その議會の内容なるものが、嘗て熱心に翹望したものと相違するを發見した彼等は、先づこれに對して幻滅して來た。幻滅した彼等は更に民權運動よりも急進的な運動に走るに至つた。その代表的人物は自由黨の名士中江兆民であつた。彼は佛蘭西歸朝の自由主義者として有名であつたが、議會に入るに及びその餘りに醜俗低調なるを慨して辭し、雜誌『自由平等經綸』を起して大いに急進的な議論を吐いてゐた。それと共に自由黨内には單なる舊式な自由主義に慊らず、社會主義的傾向に進みつつある論者が陸續として現はれて來た。而も當時の自由黨の機關紙たる『自由』の編輯局内には江口省三、金森通倫、上野岩太郎等の諸氏があつて、社會主義的主張を堂々としてゐた。普通選擧論、土地國有論等の議論は、『自由』紙上の社説欄を賑はしたものであつた。この頃自由黨の領袖大井憲太郎も亦自黨に不滿を抱いて脱黨し、東洋自由黨なる個別の團體を組織し、勞働者の保護、普通選擧の達成等を政綱とし、兎も角も急進的な運動をなさんとしつゝあつた。然しこれらの人々の言論及び運動は、社會主義思想を?釀するために間接的な貢獻をなしたかは知らないが、それ自身が社會主義の宣傳とはなつてゐなかつた。ただこの時代に於て社會主義に關する研究團體として記録を殘すべきは、二個の社會問題研究會である。その一は明治二十三年の冬、三宅雄二郎、片山潛、佐久間貞一、米人ガルスト諸氏によつて組織されたものであり、他の一は明治二十五年民友社系の上野岩太郎、自由黨系の大道和一の二氏が中心として組織されたものであつた。彼等の見解に從へば、自由主義の新領土は社會問題に向つて開拓すべきであつた。

思想的に斯くの如き状勢に置かれてゐる一方に、日清戰後の企業熱の興隆は、疲弊せる農村子弟をして工場勞働者として都會に集中せしめ、從つて勞働爭議も嘗て見ざる程の多數の記録を殘すべき素因をなした。勞働爭議の頻發は軈て勞働組合出現の礎地を形成すべきものであつた。その先驅をなしたものは、米國歸りの澤田半之助、白岩太郎、高野房太郎、片山潛諸氏の手に成り、これを『職工義友會』と稱し、明らかに社會主義的目標の下に終始してゐた。職工義友會は軈て島田三郎、佐久間貞一、松村介石等の諸名士の援助を得て、會稱を『勞働組合期成會』と改むるに至つた。同會はこれより驚ろくべき數に於て會員を増し、三十三年の調査によれば四十二支部と五千四百人の會員を數ふるに及んだ。同會の中心勢力となつてゐた人物は片山潛で、彼は雜誌『勞働世界』を發行し、加ふるに『日本鐵道矯正會』『活版工組合』等の諸組織に關係し、文筆に運動に社會主義傳道に盡くす所が大であつた。斯くの如く勞働運動の勃興と共に、社會主義思想が多少なると浸潤して行きつゝあつたのであるが、更に地方に於て米國歸りの耶蘇教徒により、眞面目に社會主義を研究する團體が生れた。これ即ち『社會主義研究會』であつて、會員としては安部磯雄、村井知至、岸本能武太、片山潛、豐崎善之助、幸徳秋水、杉村楚人冠、河上清、金子喜一等の諸氏があつた。その第一回は明治三十一年十月、芝四國町のユニテリアン協會に開かれ、爾後ユニテリアン協會の附屬事業の如き状態を續けて、遂に三十三年の幕に及んだ。然るに元來社會主義研究會は、社會主義者も非社會主義者をも抱擁した純然たる研究團體であつたため、三十三年同會が活動的態度を採るに及び、非社會主義者は同會を脱し、社會主義者のみの團體としてその名將を『社會主義協會』と改めたのである。

『社會主義研究會』が『社會主義協會』と改稱されると共に、嚴密な意味に於ける日本の社會主義運動は、始めてその誕生を見た訳である。假令當時に於ける會員總數が四十名に滿たざる微力なものであつたとはいへ、色彩を鮮明にして立つた團體として、日本社會主義運動史上には、少くとも特記すべきものである。

三 燎爛時代――平民社時代――

社會主義協會は日本最初の社會主義團體として記憶すべきものであるが、如何せん會員總數が四十名にも滿たざる微力なものであつたため、その勢力を移して直ちに政治運動を開始することは不可能であつた。然し協會員の間にあつては、社會主義の實行上の運動形態を、政黨となすべしとの論議が幾度か計畫されてゐた。この計畫こそ軈て『社會主義協會』が一點して『社會民主黨』の組織となつた順序である。

『社會民主黨』が愈々組織され、安部磯雄によつて起草された宣言書が、『勞働世界』の臨時増刊として發表されたのは、明治三十四年五月二十日のことであつた。然るに政府は同日直ちに社會民主黨に解散を命じ、その宣言書を掲載した雜誌新聞を悉く發賣禁止に附してしまつた。從つて社會民主黨なるものは、法律上には一日の存在をも許されなかつたのであるが、この事實により社會主義は漸やく一般的な興味を喚起し得たと共に、始めて實行運動の第一歩に踏み出したのである。宣言書と同時に發表した八個條の『理想』及びその具體的案件の解讀とも見らるべき二十八個條の『實際運動の綱領』に現はれた熱意は、一匕直ちに資本主義の牙城を覆へさんとする慨を示してゐた。安部磯雄、片山潛、幸徳傳次郎、木下尚江、河上清、西川光二郎の六人が、その創立者として名前を連ねてゐた。

社會民主黨の解散命令は、軈て社會主義者をして、政治運動から手を引かせるの已むなき事情に至らしめた。茲に於て教育的傳道に復歸し、安部磯雄を會長とする社會主義協會は、茶話會、大小の演説會、傳道旅行等による宣傳に力を盡くし、一面『勞働世界』改題の『社會主義』誌上に文筆的宣傳をなした。社會主義の本流たる社會主義協會が教育的傳道に盡くしてゐる頃、その傍流とも目すべき團體も二三存在してゐた。即ち矢野文雄、田川大吉郎等の『社會問題講究會』、萬朝報の『理想團』及び『普通選擧同盟會』がそれである。この中にあつて特記すべきは『理想團』である。『理想團』は萬朝報社長黒岩周六が頭目となり、社内外の名士を集めた社會改革を標榜する思想團體であつた。從つて朝報社は幾多新進の文人論客を有し、殆ど社會主義の機關紙の如き觀を呈してゐた。當時萬朝報編輯局は、青年の人望を一身に負へる内村鑑三を幕賓格に据え、論説記者として圓城寺天山、幸徳秋水を有し、名文家堺枯川を有し、河上清、斯波貞吉等を有してゐた。從つて嘗て民友社に注がれし青年者の渇仰は、今や朝報社に拂はれるといふ有樣であつた。その出店たる『理想團』も亦この意味に於て、明確なる社會改造の熱火を吐いて壇上に獅子吼する慨を示してゐた。斯くの如き状態の裡に明治三十六年は來たつた。日露開戰の機運は切迫し朝野を擧げて主戰論を高誦する時、敢然としてこれに反對したのは萬朝報及び理想團の一角であつた。元より兩者共に主義の團體でなかつたため、一氣不亂といふ如くには行かなかつたが、大體に於て反對の態度を聲明して來たのは事實である。内村は基督教主義の立揚から、幸徳は社會主義の立揚から夫れ夫れ熱心に戰爭開始に反對してゐた。然るに日露開戰の機運は到底不可避的な形勢と知るや、萬朝も亦主義論の態度を探るの已むなきに至つた。茲に於て社會主義者たる幸徳、堺は去り、内村も亦朝報社を去つた。萬朝を棄てた幸徳、堺は直ちに週間新聞發行の議を策し、有樂町に『平民社』を設け、十一月十五日を以て『平民新聞』第一號を發行することになつた。こゝに日本社會主義運動史上に、最も特記すベき『平民社時代』は開始されたのである。

週間平民は斯くして生れた。幸徳、堺は先づその資金の補助を小島龍太郎、加藤時次郎の二氏に仰ぎ、社會主義協會の論客は元より、田岡嶺雲、齋藤緑雨、伊藤銀月等の文人の寄書を受けて、堂々と市場に乘り出した。第一號のごときは最初萬千部を印刷し、更に三千部の増刷を必要とした程よく賣れて、直接購讀者ばかりも千四百名を越す盛況を示した。かくて平民社には西川光次郎、石川三四郎の兩名が奔せ加はり、四人の協同經營を以て維持されることになつた。大小の宣傳演説會、婦人講演會、研究會等を開催するのみならず、宣傳用の小册子も頻りに發行し、その賣行も亦すばらしい勢を見せてゐた。

この盛況に對して官憲の壓迫か無い筈はなかつた。最初の槍玉に擧げられたのは堺である。彼は發行兼編輯の名義人として第二十號所載の『鳴呼増税』なる論文(幸徳執筆)のために、禁錮二ヶ月の處決を受けた。堺が入獄すると共に平民社は益々結束して來た。常時は勿論日露戰爭中であり、殊に全國を擧げて戰捷の誇りに狂醉してゐた時であつたが、平民社は敢然非戰論を高唱し、時流に超卓して一世に氣慨を示してゐた。政府の壓迫は峻烈苛酷の度を極め、演論會に對する中止命令、新聞の發賣禁止等に踵を連ねて起つた。平民社は明治三十七年十一月十三日を以て、滿一ヶ年を紀念すべく、全紙を埋めて『共産黨宣言』の日本譯を掲載することに計畫立てられてゐた。然るにその紀念號たる五十三號が發行されない中に、同紙五十二號は發賣禁止となり、發行編輯人、印刷人として西川、幸徳の二人が起訴されたが、續いて紀念號も亦禁止の災厄に遭逢し、重ねて西川、幸徳が起訴されると共に、筆者としての堺が再度の裁判事件を起した。越えて十六日には者相主義協會も結社禁止の宣告を政府から下された。社會主義運動は斯くして表面的には紛碎された形式であつたが、平民社を中心とする從來の宣傳運動は、尚ほ溌溂たる意氣を以て繼續されてゐた。小田頼造、山口義三、深尾韶、荒畑勝三等の年少氣鋭の人士が、例の『傳道行商』の物語を殘したのは當時のことであつた。

然るに週間平民に纏る裁判事件は進行し、五十二號事件によつて發行停止の判決を受けたので、同紙はその執行に先ち三十八年一月二十九日終刊號を出し、全紙赤色刷で悲愴慷慨の氣を漲らしたものである。その後の平民社の宣傳運動は週間『直言』に依ることになつた。

『直言』は元來原霞外、白柳秀湖等が加藤時次郎の後援を受けて出してゐた社會改良主羲の雜誌であつた。然るに平民新聞が廢刊すると共に、その發賣所が平民社に移され、同時に三十八年二月五日を以て週間第一號が發行されたのである。斯くして『直言』は實際上『平民新聞』を繼承することになり、同紙と全く同じ體裁で毎日曜に發行された。直言時代には幸徳が禁錮五ヶ月、西川が禁錮七ヶ月で入獄してゐたのにも原因して、特記すべき事業とてはなかつた。演説會、研究會等の催し、小册子、チラシ等による宣傳は從前の通りであつた。ただ特異な運動法とも見られるのは、深尾韶、渡邊政太郎等の幻燈行商、原霞外等の社會劇會等であるが、それとて大したものではなかつた。この間にあつて森近運平は大阪に據り大阪平民社を起した。木下尚江が上州前橋において社會黨候補者として三十二票の得點があつたのもその當時である。

この頃平民社は内外共に面白からぬ状態に立ち至つてゐた。元來平民社の財政なるものは、寄附金によつて不足を補なふことになつてゐたのであるが、罰金が度々重なり、沒收機械の辨償金にも迫られ、財政上の困難は甚だしいものがあつた。加之、内に於てはクリスチヤン系の木下、石川等の社會主義者と、堺等の唯物主義者との間の思想的懸隔が漸やく甚だしくなつてゐた。七月二十八日直言の『幸徳氏歡迎號』を以て迎へられて幸徳が出獄した頃は、その状態が餘程究竟に押し詰められてゐた。留守軍の責任者たる堺は、その機會に於て責任の地位を去るべきを提案したが、結局平民社は改めて幸徳、堺、木下、石川の四人が連帶責任を以て協同經營に當ることに決した。然るに直言は間もなく九月十日の三十二號を出すと共に、筆禍を蒙むつて發行停止命令を受け、遂にこれを以て消滅してしまつた。越えて九月二十六日西川の出獄と共に、前記四人と相談した結果、遂に平民社は一先づ解散すべきことに決した。解散式は十月九日の夜平民社樓上に行はれた。

平民社の解散と共に殘されたものは何であつたか、これ即ち分離すべくして分離した『光』と『新紀元』である。『光』は西川光次郎、山口義三兩者の編輯に係り、唯物主義に依る社會主義を説いてゐた。これに反して『新紀元』は基督教社會主義とも目すべきで、安部磯雄、木下銜江、石川三四郎の三人によつて起された。前者の有力なる寄稿者には幸徳、堺があり、後者の有力なる寄稿者に徳富健次郎、田添鐵二があつた。斯くして舊平民社内の兩派は相互に分離して、その立場を守ることになつた。この時幸徳は出獄後健康を傷ねてゐたので、病を養ふと稱して渡米し、堺は『家庭雜誌』裡に退いた。續いて彼は社會主義に關する高級智識を普及するの急を思ひ、『社會主義研究』なる赤表紙の雜誌を發行した。社會主義學に關する有數な文獻の翻訳、及びその理論、歴史、運動の紹介等をなしたが、同誌は惜しい哉五號で廢刊されてしまつた。その他白柳秀湖、安成貞雄等の『火鞭』も文學的な雜誌であつたが、清新溌溂たる社會主義的氣焔を吐いてゐた。その他單行本としては河上肇の『社會主義評論』、久津見蕨村の『無政府主義』、山路愛山の『社會主義管見』等も發行され、一般的に廣く讀まれたものである。

更に當時の實行運動の方面を見るに、三十九年二月十四日『日本社會黨』が創設された。日本社會黨は西園寺内閣が言論抑壓を緩和せるに乘じ、瀬踏的に届出た西川の『日本平民黨』と、堺の『日木社會黨』に對して、改府が何ら干渉手段を採らなかつたので、二黨が合同して木挽町加藤病院内に第一回大會を開き、十三名の評議員を選擧した。斯くして日本社會黨は公然と結社の自由を得、講演、遊説等をなし、普通選擧の講願運動には極左翼として奔走したのであつた。

然るに間もなく電車値上反對運動を起し、山路愛山の國家社會黨その他と提携し、大示威運動が開始された。その第二回大會が堺利彦を會種として開かれ、田川大吉郎、加藤時次郎等の奔走によつて進行したが、集會中電車の窓に投石し、建築物を破壞したる者が出で、社會黨員中十名は兇徒聚衆罪の被告として檢擧された。然るにこの運動が奏效したものか、電車賃値上案は遂に内務大臣へ申請却下となつたが、直ちに市内三個の電車會社が合併し、再度値上を策して政府の許可を得たので、社會黨はボイコツトの新運動をやり出したが、結局成效せずに終つた。

これより先き渡米した幸徳は、桑港平民社を中心に盛に宣傳運動に從事して、桑港社會革命黨なるものを組織したが、三十九年六月二十三日豫定を早めて歸朝した。幸徳の歸朝と共に日刊平民新聞の計畫が持ち上り、『光』と『新紀元』の合同計畫が成つた。即ち『光』は十二月二十五日發行の第三十一號を終刊號とし、『新紀元』は十一月十日の第十三號を以て終刊號とし、共に合同して日刊平民を起すことに著手した。尤も當時木下尚江は精神上の變動を理由として單なるクリスチヤンに復歸してゐたので、日刊平民の創立者は、石川三四郎、西川光次郎、竹内兼七、幸徳傳次郎、堺利彦の六名であつた。

斯くして唯物派の社會主義者と、基督教派の社會主義者が合同し、日刊『平民新聞』を發行することになつた。この費用の大部分は竹内兼七なる人物が負擔して同新聞の社長たる名義を得たが、その他大石誠之助、岩崎革也、逸見斧吉等もその一部分宛を負擔した。然し當時既に兩派の社會主義者間には、思想的にも感情的にも融和を缺いてをつたのであるし、合同そのものも不自然なる仕事であつたため、編輯局内の意見は統制を採り得なかつた。果然米國歸りの幸徳は、在米中無政府主義の洗靈を受けて來たので、最強硬の主張を採り、四十年二月五日の平民新聞紙上に、『餘が思想の變化』と題し、極力從來採り來たりし議會主義を攻撃して直接行動を強調せる一文を掲げた。これは單に幸徳一個人の思想的變化を叙するに終つたのみではなく、これがため黨内に議會派と非議會派との確然たる截別を與ふべき動因を作つた。その具體的な現はれは二月二十七日の社會黨大會であつた。同會に於ては議會政策主義と直接行動主義との論爭が釀され前者は西川光次郎、田添鐵二等が代辯者であり、後者は幸徳傳次郎、山川均等が固執した。その結果は遂に硬派が勝ちを得、大會の形勢も亦大部分直接行動派に左祖すベく見えた。翌日の平民新聞は詳しくその模樣を報道した。然るに該紙はそれがため發賣禁止を喰ひ、編輯者發行者等は直ちに朝憲紊亂の廉を以て起訴さるる運命を招いてしまつた。

當時平民社の財政は窮乏の限りを盡くし、加ふるに出資者たる竹内が中途よりこれが實行を見合はしたので、如何ともする能はざる状態にあつた。外にこの窮乏あり、内にこの内訂あり何とかして新局面を打開せざる以上、収拾するに由なき有樣であつたところへ持つて來て、平民新聞は發行禁止の處分に遭ひ、同時に日本社會黨へは解散命令が下された。茲に平民社として社會黨として、また瓦壞せざるを得ない事情に立ち到つたのである。

日刊平民沒落後に於て、硬派と軟派との睚合は益々甚だしくなり、相互に別個の運動を探る事になつた。即ち當時米國より歸朝せる片山潛は、軟派を代表して、赤羽一、西川光次郎、田添鐵二等と共に東京に週間『社會新聞』をおこし、硬派と目せられたる森近運平は大阪に荒畑勝三と共に、半月刊、『大阪平民新聞』を出だした。大阪平民には幸徳、堺、山川、大杉等が執筆援助してゐた。然るに同紙は十一月五日『日木平民新聞』と改題するや、所謂硬派の機關紙としての内容を備へるやうになつた。一方『社會新聞』も片山對社員の關係が圓滑に行かず、遂に分裂して西川光次郎は新たに『東京社會新聞』を起し、片山潛は田添鐵二と共に社會新聞を固守した。斯く思想的に(内實は、色と慾と權柄の爭ひが動力であつたことは茲に説かない)乖離したる二派は、運動政策に關しても互に自説を固持して討論駁撃するといふ有樣であつた。

社會主義運動に大打撃を與へた『赤旗事件』なるものが起きたのはその後のことである。明治四十一年六月二十二日、山口義三の出獄歡迎會が神田錦町の錦旗館で催された。この會には社會黨の兩派共に出席した。この頃幸徳、堺等の一味を普通柏木團と呼び、西川等を金助派と呼んでゐた。それは彼等の住居が一は淀橋柏木にあり、一は本郷金助町にあつたからである。錦旗館に於ける兩派の對峙は、日頃の紛爭もあり極めて緊張したものであつた。殊に柏木團は金助派に對して常にその軟弱と弱腰を攻撃してゐた行掛上、反對派に對する示威の意味で虚勢的に赤旗を振りかざしたのが、端なくも警官との衝突を惹起し、遂に『赤旗事件』なるものを釀すに至つた。白晝赤旗を立て警官と格鬪した結果は、官吏抗拒の罪名に問はれて、即時拘引され堺、大杉、山川、荒畑等を始め都合十二人の者が起訴された。その中に管野須賀子、神川松子、小暮禮子、大須賀里子の四婦人ありしことは頗る世人の好奇心を唆つたが、彼等の或者は執行猶豫となり、或者は無罪を言渡され、結局下獄されたものは一人もなかつた。男連はいづれも一年乃至二年の懲役に處せられて、千葉監獄に送られた。

日本の社會運動史上痛慘なる紅斑點を殘した『大逆事件』が起されたのは明治四十三年夏である。極祕裡に取調は進行して翌年一月處刑された。が、これに關する一切の記録は茲に抹殺せざるを得ない。ただこれに關係した人名を擧ぐれば左の十二人であつた。

幸徳傳次郎、森近運平、内山愚堂、大石誠之助、松尾卯一太、古川力作、宮下太吉、成石平四郎、新村忠雄、新見宇一郎、管野須賀。

四 蟄伏時代

赤旗事件の強襲と大逆事件の檢擧とは、兎に角く日本の社會運動史上致命的な大打撃であつた。言論文章といはず、實際運動といはず、一切の自由は剥奪され、衣食の道をも絶たれんとしてゐた。幾多の同主義者は運動圈外に去り、堺利彦を中心とする二三の同主義者のみが運動線上に殘される有樣となつた。堺の千葉監獄に在る時、出獄後の生活資料を得んがため、種々考へを碎いた末、遂に案出したものは『賣文社』である。明治四十三年九月下旬出獄後、彼は先づ自らの生活を立てんため、自宅に賣文社の看板を掲げた。この皮肉なる思ひつきは、贊否兩樣の議論があつたけれども、商賣として大分有望であつた。當時社員といふものは他になかつたが、大杉榮、荒畑勝三等の人々は、自ら『賣文社技手』と稱して、仕事の分擔をなしてゐた。四十四年四谷左門町に事務所を移すと共に、高畠素之か京那から上つて賣文社技手の一人となつた。賣文社はこれらの若手の技手を増すと共に、更に京部南佐柄木町に移り、始めて組織的に仕事をやるやうになつた。佐柄木町時代は出勤制度となし、約一年ばかり績いた。

次いで賣文社が麹町永田町に移つた時、郷里岡山に靜養してゐた山川均が上京し、賣文社の一員として加はることになつた。山川が來り加はると前後して、賣文社からは雜誌『新社會』を發行することとなり、堺、山川兩名がその編輯に當つた。新社會の前身は『へちまの花』といひ、諷刺皮肉集の如きものであつたが、大正四年九月一日『小さな紙旗の旗上』と稱して、これを出だしたのである。

これより先き大杉は賣文社の態度に慊ずして退き、自ら『賣文社退治』を聲明して別個の行動を採り、大正二年十月荒畑と共に月刊『近代思想』を出だした。同誌は迫害の中に翌年九月まで續け、一時これを休刊して翌十月から月刊『平民新聞』を發行した。月刊平民は少時苦鬪を續けたが、遂に廢刊を宣し、再び六年十月から『近代思想』を復活せしめた。第二期の近代思想は翌年の一月まで續いた。この間彼等は主としてサンヂカリズ厶及び無改府主義の學説及運動を紹介してゐた。その後近代思想と同型の『文明批評』を出だしたが、これは二號にして倒れてしまつた。

その頃、賣文社は事務所を京橋鍋町に移し、再び出勤制度となし、諸般の設備を改め生活機關としての實質を添えて來た。この期に於て記すべきは大正六年春の總選舉に、堺利彦が東京市部より衆議院議員候補者として打つて出た事である。立候補に對する非難攻撃もあつたが、一つには宣傳の機會を得るため、市内各處に政見發表演説會を聞いて戰つた。然し到る處に壓迫の手は延び、演説會は遂に解散の運命を免れなかつたが、結局二十三票の得點を得て終つた。

泣かず飛ばずの状態は更に續いて、賣文社は有樂町一ノ四に轉居した。その頃から『新社會』は多少の活氣を加へて來た。

然るに大正七年十月、山川、荒畑の兩人が宣傳誌『青服』に執筆した文章が法に觸れて兩人とも投獄され、續いて堺も亦賣文の隱居役として退隱し、後の事務は一切高畠が引受けることになつた。それと共に新社會も高畠編輯となり、經營者として北原龍雄がこれに當つた。北原は遠藤友四郎につゞいて七年秋に賣文社に入つたものである。續いて茂木久平、尾崎士郎の兩人も入社し、賣文社は新しき青年を以て内容とするやうになつた。新内容を加ふると共に賣文社内の空氣も一新し、これを單なる同志の生活機關として存續せしむるを欲せず、運動的結社としての實效を擧げんとする機運が漲つて來た。斯くして生じたものが所謂國家社會主義運動である。國家社會主義の旗上は、堺、山川等との思想的分離となり、從つて『新社會』は由分社から出すことになつたので、新賣文社からは八年五月『國家社會主義』を新しく發行する事になつた。『新社會』は聞もなくその經營を山崎今朝彌の平民大學に移し、後『新社會評論』と改題し、更に『社會主義』と改題して岩佐作次郎經營の下に現在に及んでゐるが、『國家社會主義』は五號にして廢刊した。

この頃世間の景氣は最もよかつた時で、露西亞革命の刺撃に昂奮した讀書階級は、社會主義に開する知識慾に燃えてゐた。加ふるに内外の情勢に支配されて政府も取締政策を稍々緩和して來たので、從來穢多村扱を受けてゐた社會主義者も、論壇の寵兒として迎へられるやうになつた。社會主義に關する書籍も出版されるやうになつた。新賣文社も亦出版部を設け、堺譯ゴルテル『唯物史觀解説』についで、高畠訳のカウツキー『資本論解説』を出だした。茂木久平、尾崎士郎共著の『西洋社會運動者評傳』は不幸にして禁止の厄に遭つた。この頃市内各處に『國家社會主義講演會』を開いてゐた。然るに高畠は『資本論』の翻譯に全力を擧ぐることとなり、北原は週間『勞働新聞』を出だす計畫を立て、茂木は『自由協會』を創立することとなり、自然社會主義者の生活機關としての賣文社は、その内容を改へるやうになつて來た。これは社會主義者が穢多村待遇を受けず、從つて代作賣文を以て生活資料を得る必要がなくなつたからである。時勢は既に社會主義流行期の第一歩に踏み込んでゐたのであつた。

五 流行時代――分化時代

社會主義が過速度に流行的勢力を増し、勞働運動がある程度まで社會主義と合致し、而して更に再分化し始めたのは、僅かに茲一兩年の事實で、これを過去の歴史として取扱ふべく餘りに現在的な事實である。從つて一切の詳細なる報告はこれを必要としないであらう。流行時代の盛時に於ては、學者、思想家、文學者が悉く多少なりとこの熱氣に浮かされ、誠に百花燎爛の有樣を現出した。これは一つには戰爭中の歐米の思想的變化に影響されるところであつたが、その最たるものは露西亞革命の成效に對する興味と昂奮であつた。加ふるに、戰後の好景氣に連れて所謂運動屋が續出し、ストライキも頻發するといふ風で、思想界も勞働界も何となくざわめき出して來た。

勞働界を見ると聯盟會義に勞働代表者な送るに際し、選定された桝木卯平が正當な選舉に依り選ばれた勞働代表者でないと云ふので、激烈な反對運動を捲回したのが、これらの示威運動の最初であつた。その頃からストライキが幾度か繰り返へされ、示威運動が幾度か繰り返ヘされるに從ひ、勞働者の知識的覺醒も促がされ、幾多の勞働組合にも社會主義思想は注入された。この一例を友愛會に求むるならば、會長鈴木文治の信任は柵橋小虎、麻生久等の新進知識階級者に移されてゐた。その他の組合も知識階級に接近し、知識階級も亦勞働組合に進んで接近せんとした。かかる一面に官私の大學生を中心とする思想團體――新人會、曉民會、建設者同盟、オロラ協會等の如きも簇出し其の會員等は進んで運動に投ずるといふ風であつた。茲に於て所謂思想界と勞働界とが同一平面上に立ち、合同的勢力の上に事を起さんとする氣運が見えて來た。その具體的現はれは『社會主義同盟』である。これは古い社會主義者の間に提案されたもので、新しい實質上の社會主義者をも包括して一團となした。加盟申込者が三千名に達すると吹聽して、大正九年十二月十日神田青年會館に發會式を擧げた。これは舊い社會主義者の外に、思想家、文士、勞働運動者、學生、勞働者等を一丸としたもので、左右中央三派の混合世帶であつた。かく成立そのものに無理もあつたので、期待した運動は壓迫のために實行されず、本年五月九日第二回大會を開く頃には、漸やく思想上の分離も明らかになつてゐた。而してその頃から勞働者の間には指導者排斥、知識階級放逐の機運が?釀され、知識階級も亦官憲の壓迫を怖れて、運動に加はるのを危險とし、總退却の形勢を示して來た。斯くして一般思想界と、社會主義と、勞働運動とは改めて分化して來た。現在のところではこの分化の傾向が益々明瞭になりつつある。而して一時は社會主義に非ずんば夜も明けないといつたやうな讀書界の流行も、漸次下り坂になつて來たのである。小くとも表面的に見たる現在の社會主義運動は、新しく沈衰の季節に向ひつつある。

これを要するに日本に於ける社會運動の盛衰は、一般世間の景氣不景氣によつて決せられる。日露戰後の平民社時代の雄飛期と、一昨年頃の流行期には、種々の意味に於て符節を會する點が甚だ多い。再び『白禍政策』が敢行された場合は、一溜りもなく蟄伏期に入るべき可能性は充分ある。この意味に於て運動史上の消長を聲を大にして説くも變なもので、結局世間の景氣不景氣に左右されたものと見れば大過なきところであらう。

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初出:『解放』第三卷第十號(大正十年十月)

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